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最高裁判所第三小法廷 平成4年(オ)1013号 判決

上告人

佐々木惠美子

右訴訟代理人弁護士

山森克史

鯉沼希朱

藤本欣伸

被上告人

マンカインド株式会社

右代表者代表取締役

佐々木ビル政人

右訴訟代理人弁護士

高畑忠之

主文

原判決を破棄する。

本件を東京高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人山森克史、同鯉沼希朱、同藤本欣伸の上告理由第一点ないし第三点について

一  本件訴訟は、被上告会社が本件建物を占有する上告人(被上告会社の代表者佐々木ビル政人の妻)に対し所有権に基づきその明渡しを求め、上告人がこれを権利の濫用に当たるなどと主張して争うものであるが、原審の確定した事実関係の大要は次のとおりである。

1  被上告会社は、シルバ・マインド・コントロールと称する潜在能力開発法の教授、普及活動を目的として昭和五〇年一一月八日に資本金三〇〇万円で設立された会社であるが、経営及び管理のすべてを代表取締役である佐々木ビル政人が行っている。ビルはアメリカ合衆国の国籍を有する者であるところ、被上告会社設立のための資金は、いずれもアメリカ合衆国に在住するビルの母、兄トマス隆、妹メィズィ菊美が株式払込金として各一〇〇万円を出資し、各二〇〇〇株の株主となった。また、右三名は、被上告会社に対する貸付金の形で各二〇〇万円を出捐した。その後、ビルの母が死亡し、その権利を隆及び菊美が相続した結果、隆及び菊美が各三〇〇〇株の株主となった。被上告会社の役員としては、ビル以外に、取締役として隆、菊美、菅野孝四郎、水谷貞吉が、監査役として高橋通夫がそれぞれ就任しており、従業員としては、昭和六三年ころ以降、事務員一名がいる。被上告会社において株主総会及び取締役会が定期的に開催されることはなく、ビルが渡米した際、隆らの意向を確認することがあるのみである。

2  被上告会社は、潜在能力開発法に関する本の販売と指導者からの手数料を主な収入源としているが、最近は赤字経営の状態が継続している。

3  被上告会社は、能美和夫から、昭和五九年四月二六日、本件土地をその上に建物を建築して転売する目的で買い受け、同年五月九日、同月八日売買を原因とする所有権移転登記を経由した上、ミサワホーム株式会社との間で請負契約を締結して本件土地上に本件建物を建築し、同年九月二五日、本件建物の引渡しを受け、同年一二月一七日、所有権保存登記を経由した。本件土地建物には、株式会社第一勧業銀行を根抵当権者とし、被上告会社を債務者とする極度額四〇〇〇万円及び極度額九〇〇万円の各根抵当権が設定され、その旨の登記がされている。被上告会社は、同年一〇月ころ、ミサワホームに委託して本件土地建物の売却を図った。

4  ビルと上告人は、昭和四四年一一月一四日に婚姻し、同四六年一〇月三日に長女ミエが生まれた。

5  ビルと上告人との夫婦関係は昭和五九年当時悪化しており、ビルは、同年一〇月二四日、東京家庭裁判所に離婚の調停を申し立てたが、同年一二月、上告人と協議した結果、ミエに対する教育上の配慮から当面離婚を見合わせることとし、右調停の申立てを取り下げた。そして、ビルは、上告人及びミエとともに本件建物に居住することにし、被上告会社は、本件土地建物を売却することを取りやめ、同月下旬ころ、ビルとの間で本件建物を賃料月額一五万円で賃貸する旨の契約を締結し、ビルは、上告人及びミエとともに本件建物に入居し、昭和六〇年一月以降、被上告会社に対して右賃料を支払ってきた。

6  その後、ビルと上告人との夫婦関係は更に冷却し、ビルは、昭和六三年一〇月一〇日、上告人及びミエを本件建物に残したまま別居し、同月一八日、被上告会社との間で、本件賃貸借契約を同年一一月三〇日をもって解除し、本件建物を明け渡す旨の合意をした。

7  被上告会社は、上告人から本件建物の明渡しを受けた場合には、月額一五万円よりも高い賃料で他に賃貸することを意図している。

二  原審は、右事実関係の下において、以下のとおり判示し、被上告会社の本件建物明渡請求を認容すべき旨判断した。すなわち、(1) 被上告会社においては会社の財産とビル個人の財産とは明確に区別されているから、被上告会社は会社としての社会的実体を有するものであって、その法人格が形骸にすぎないということはできず、被上告会社は本件建物の所有者である。(2) 被上告会社とビルとが別の法人格である以上、上告人の主張するビルと上告人との婚姻生活に関する事実をもって本訴明渡請求が権利の濫用に当たる事由とすることはできず、また、ビルに上告人に対する嫌がらせ的な意図があることは認めるに足りないから、本訴明渡請求が権利の濫用に当たるという上告人の主張は理由がない。

三  しかしながら、原審の右判断は是認することができない。その理由は、次のとおりである。

被上告会社の本訴明渡請求が権利の濫用に当たるか否かは、被上告会社の法人格が形骸にすぎないか否かによって直ちに決せられるものではなく、本件建物の明渡しが実現されることによって被上告会社の受ける利益と上告人の被る不利益等の客観的事情のほか、本件建物の明渡しを求める被上告会社の意図とこれを拒む上告人の意図等の主観的事情をも考慮して決すべきものである。そして、上告人の主張するビルと上告人との婚姻生活に関する事実は、大要、(1) ビルは、上告人と共に本件建物に居住して婚姻生活を営んでいたのに、夫婦関係が険悪になって上告人とミエを残したまま本件建物から出た後は、上告人に対して生活費を交付せず、そのため上告人とミエは生活に窮し、やむを得ず他からの援助を受けながら本件建物において生活している、しかも、(2) 上告人の申立てにより、東京家庭裁判所は、平成二年七月三〇日、ビルに対して、「上告人に対し、婚姻費用分担金として審判確定後直ちに四九五万六〇〇〇円を、平成二年八月以降離婚又は別居解消に至るまで毎月末日限り二三万六〇〇〇円を、いずれも送金して支払え。」との審判をし、ビルの抗告に対して、東京高等裁判所は、同年一〇月三〇日、抗告を棄却し、右審判は確定したのであるが、その後もビルはこれに従っていない、というものである。そうすると、ビルが被上告会社の代表者としてその経営及び管理のすべてを行っているという本件においては、これらの上告人主張の事実は、本件建物の明渡しが実現されることによって上告人の被る不利益の具体的事実の一部として意味がある上、ビルが本件建物から出た八日後に賃貸人である被上告会社の代表者と賃借人の立場を兼ねて賃貸借契約を合意解除した事実と相まって、本件建物の明渡しを求める被上告会社の意図ないし動機を推認させる事情の一部として意味がある。結局、上告人の主張するビルと上告人との婚姻生活に関する事実は、被上告会社の本訴明渡請求が権利の濫用に当たるかどうかを判断するについて考慮すべき重要な事実というべきである。

右の事実をもって本訴明渡請求が権利の濫用に当たる事由とすることはできないとして、これを審理判断の対象とすることなく、本訴明渡請求が権利の濫用に当たらないとした原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があり、ひいては審理不尽、理由不備の違法をおかしたものというべきであり、右違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。

なお、記録によれば、上告人は、右権利濫用の主張に先立つものとして、本件合意解除が信義則に反する旨をも主張しているというべきところ、原審は、右主張に対する明示の判断をしていない。仮に、前記二の(2)の判断が実質的にはこの点の判断を兼ねているとしても、上告人の主張するビルと上告人との婚姻生活に関する前記の事実は信義則違反を根拠づける具体的事実としての意味をも有するから、これを審理判断の対象とすることなく、本件合意解除が信義則に反しないものということはできない。

四  論旨は以上の趣旨をいうものとして理由があり、その余の上告理由について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして右に判示した点について更に審理を尽くさせるため、本件を原審に差し戻すこととする。

よって、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官尾崎行信 裁判官可部恒雄 裁判官大野正男 裁判官千種秀夫)

上告代理人山森克史、同鯉沼希朱、同藤本欣伸の上告理由

第一点 原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背がある。(民事訴訟法第三九四条)

すなわち、原判決は、被上告人の本訴請求は権利の濫用であるとする上告人の抗弁を否定したが、本件の諸事情の下における本訴請求は正に権利の濫用と目すべき事案であり、原判決の判断は、民法第一条第三項の解釈適用を誤り、また後記の判例に違反し、然らざれば重大なる事実誤認があり、その違法が判決に影響を及ぼすこと明らかである。

一 上告人の主張

1 本件事案

本件は、本件建物にて上告人と訴外佐々木ビル政人(「ビル」)が婚姻生活を営んでいたところ、ビルが本件建物から退去し、ビルが代表取締役である被上告人から、上告人に所有権に基づく建物明渡請求をなしているものである。

2 従前の判例の立場

(一) 一方配偶者からの明渡請求

夫婦として同居していた者に対する一方配偶者からの建物明渡請求は、信義則、権利濫用理論による制約に服する。

一方配偶者からする明渡請求に対して、大多数の判例では、訴訟上の紛争解決の法理として権利濫用論を適用しているが、中には「配偶者は、同居の義務を有すると共に相互扶助の原則上、同居の権利も有する筋合いであるから、所有者でない配偶者は同居すべき家屋を使用する権限を有する」(東京地裁昭二八・四・四〇判例タイムズ三一・八四)、「夫婦が明示又は黙示に夫婦共同生活の場所を定めた場合において、その場所が夫婦の一方の所有する家屋であるときは、他方は、少なくとも夫婦の間においては、明示又は黙示の合意によって右家屋を夫婦共同生活の場所とすることを廃止する等の特段の自由のない限り、右家屋に居住する権限を有すると解すべきである」(東京地裁昭六二・二・二四判例タイムズ六五〇・一九一)として配偶者の占有権限を認めて明渡請求を棄却したものもある。

配偶者の占有権限を認めると夫婦の一方からする明渡請求は原則として許されないこととなろう。これは、前掲の判例が判示するように、もともと夫婦の一方は相手方に対して同居義務・扶養義務を負っているのだから、相手方の生活の基盤を揺るがすような行為は許されないと解されるからである。

(二) 権利濫用理論

ところで、権利濫用とはそもそも抽象的には法律に規定される権利内容の範囲内に属してはいるが、現実の具体的な諸事情に即してみるとき、権利の行使として是認するわけにはいかない場合に適用される法理をさす。すなわち、事件の個別性に着目して、法規を補充修正して具体的事件の公平・妥当な解決をはかるものなのである。このように、権利濫用の法理は、法規を形式的に適用するのではなく、実質的な観点から法の目的とするところである公平・正義等を達成しようとするものである。その要件については、権利の行使によって権利者に得られる利益と、権利の行使によって相手方に与える不利益及び社会的な不利益とを比較考量しつつ、あらゆる具体的事情を総合的に考察し判断されるべきである。つとに、我が国の判例、学説も一致して、この客観説と呼ばれる立場をとっている。

(三) 他者からの明渡請求

そうであれば明渡請求権者が夫婦の一方である場合のみに限らず、他者が明渡請求権者であっても、具体的事情により、夫婦の一方からする明渡しの場合と同様に相手方が配偶者として居住し続ける利益に配慮して、権利濫用理論の適用される事案もあってしかるべきであり、その旨の判例も存する。

夫婦の一方からする明渡請求の場合ではなく他者からする明渡請求の場合に権利濫用を認めて原告の請求を排斥した判例を次に挙げる。

① 夫より建物の贈与を受けた子らが原告となって夫と別居している後妻に対して提起した建物の明渡請求が権利の濫用と判断された事例。権利濫用を基礎づける事実として、夫と後妻の夫婦関係の実体、被告の本件建物を使用する必要性を認定して、夫において「本件建物の使用を拒むべき正当の理由があることを窺うべき事実は、なんら存しない。……本件建物の使用を許諾しなければならない義務を負っていたもの」と判断した上、原告らがその事情を知悉しており、本訴請求も夫と相謀ってのものであること、原告らと被告との身分関係、原告らの本件建物明渡しを必要とする特段の事情の有無を認定。(東京地裁昭五八・一〇・二八判例時報一一二〇・五九)

② 本妻らによる亡夫と妾関係にあった女性に対する家屋明渡請求が権利の濫用とされた事例。権利濫用を基礎づける事実として、亡夫と被告との関係、亡夫と原告との関係、原告と被告との関係、原告の本件建物を使用する必要性等を判断。(大阪地裁昭五五・一・二五判例時報九六九・九一)

③ 家屋の相続人から被相続人花子の内縁の夫に対する家屋明渡請求が権利濫用に当たるとされた事例。権利濫用を基礎づける事実として、被告と花子との関係、被告の本件建物使用の必要性、被告及び花子と原告らとの関係、花子が存命していたならば、被告は生涯本件建物に居住し続けたことは十分考えられるし、原告らも右のように考えていたことは十分うかがわれること等を認定し、「本件建物についての被告と花子のこれまでの関与度合及び被告自身の必要性等を勘案すれば、本件建物における従来どおりの被告の居住の利益は十分に保護されるべきもの」と判断。(東京地裁平二・三・二七判例時報一三七〇・七一)

右①②③の判例は、婚姻生活の居所の明渡請求において、明渡請求権者が夫婦の一方でない場合であっても、関係者相互の関係、紛争の経緯等ひろく諸事情を斟酌した上、請求者が当該婚姻生活の実体を知っていたこと、請求者と夫婦との関係等を重要な事実として認定し、実質的観点から明渡請求の不当性を判断しているのである。このことは、前述のとおりの権利濫用法理の存在する目的及び客観説の立場からは当然のことである。

3 原判決

(一) 原判決の判断

しかるに原判決は、「控訴人が権利の濫用に当たるとして主張する(一)ないし(三)の事由は、いずれもビルと控訴人との間の事情にとどまるものであり、……被控訴人とビルとが別の法人格であることは先に判断したとおりであることから、控訴人の主張する右事由によって被控訴人の本訴請求が権利の濫用に当たるとすることはできず」と判断し、そもそも上告人の主張する婚姻生活の実体を示す事実は、権利濫用を基礎づける事実ではないとしている。

(二) 原判決の批判

(1) 原判決は、権利濫用が実質的観点からの法理であることを看過するものである。もちろん、夫婦の一方からする明渡請求に対しては権利濫用で対抗できる場合であっても、全く夫婦と無関係な明渡請求権者に対しては対抗できない場合が多いであろうが、当該夫婦の明渡請求権者との関係又は明渡請求権者の立場によっては、抗弁が認められる場合のあること前掲の判例の通りである。

なお、本件とは若干事案を異にはするが、最高裁昭三八・五・二四(対抗力を具備しない土地賃借権者に対する建物収去、土地明渡の請求が権利の濫用となるとされた事例)は、

「甲が乙より土地を賃借した後、土地の所有者が乙、丙、丁と順次譲渡された場合において、丙は乙の実子であり、丁は乙、丙その他これと血族又は婚姻関係にある者の同族会社であって、その営業の実態は乙の個人営業をそのまま引き継いだものであり、乙がその中心となっている等の事情があるときは、丁において、甲の右賃借権が対抗力を有しないことを理由に建物収去、土地明渡を求めることは、権利の濫用として許されない」

旨の判示をなしている。右判例は丁の甲に対する明渡請求が権利濫用となるかどうかを判断するに、丁甲間の事情のみでなく、甲乙間の事情及び乙、丙、丁の関係をも考慮に入れているのである。

このように、自身が権利を行使すれば、権利濫用の法理により権利の行使を制限されたであろう者と実際に権利者として権利を行使している者との間に密接な関係があり、前者が後者を支配できる状況にある場合には、実際に権利を行使する者の権利行使も権利濫用とみうるのであって、原判決のように両者の人格が別であるとの一事を以て権利濫用の法理を排斥することは不当であり、原判決は、形式に把われず、具体的結論の妥当性をはかるべく考え出されたこの法理の解釈を誤まるものといわざるを得ない。

(2) 本件事件では、被上告人の法人格は形骸化していないまでも、同人とビルは表裏一体の関係にあり、経済的利害は共通しており、ビルは被上告人を自由に支配・コントロールできる立場にあり、現実に支配している。本件土地建物を購入建設するにおいても、ビル個人の名義とするか、被上告人の名義とするかは、ビルの一存で自由に決め得る立場にあったものということができる。

右の点について、被上告人は、本件土地建物を投資目的で取得した旨主張し、原判決もこの旨、漫然と認定しているが、当時、被上告人は、四千万円余の銀行借入れが容易にできる状態にあったのだから、本業の潜在能力開発法の普及事業は極めて順調に推移していたものと考えられ、敢えて不動産事業に乗り出す理由は見出せず、また昭和五九年以降バブル経済の最盛期を迎えているにもかかわらず、その後本件土地建物以外に、一件も不動産事業に携わった形跡は全く認められない。

原審の上告人本人尋問、長女ミエの上申書(乙第四二号証)及び原審及び控訴審における弁論の全趣旨から、本件土地建物がビル、上告人及びミエ家族の居住用に取得されたことは、火をみるよりも明らかといわなければならない。

被上告人の名義とされたのは、当時上告人とビルの夫婦仲がそれほど良くなかったことから、ビルが将来のことを考え、故意に自己名義を避けたと推測するのが自然であり、社会常識に合致する。

また甲第一三号証の「お支払額明細表」によると、四千万円の銀行借入れについて、被上告人は昭和五九年一二月より約一五年間毎月約三八万余銀行に返済するものとされているが、被上告人が提出した甲第二六号証の同社の昭和五九年八月一日から平成一年七月三一日までの第一〇期から第一四期に亘る出入金を示す会計帳簿には、右返済の記録が全く存在しない。右事実は、これらの金銭がビル個人の金より支払われたことを如実に物語っているといわざるを得ない。

(3) 以上のことから明らかなように、原判決は、ビルと被上告人の法人格が別であると認定したのみで、ビルと上告人間の婚姻生活、本件土地建物の名義が被上告人とされた事情、被上告人とビルとの密接な関係の検討を放棄し、権利濫用の法理を排斥しているが、これは権利濫用理論の役割及びその要件の解釈を誤るか、然らざれば、重大なる事実を誤認したものといわざるを得ない。

実際、原判決のように解すると、夫婦の一方が他方に対して明渡請求をする場合、会社を設立して会社に権利を譲渡すれば、会社からの明渡請求が常に認容されるということになろう。その結果が不当であることは余りにも明らかであり、このように法規の形式的適用による不当な結果を回避するための理論がまさに権利濫用理論である。権利濫用理論は、法人格が別であれば適用されないというような画一的・形式的な理論であるはずがない。

第二点 原判決には、権利濫用を基礎づける事実の主張に関して、判決に影響を及ぼすことが明らかな理由不備があり、又は訴訟手続きに関する法令の違背が存する。(民事訴訟法第三九五条、三九四条)

すなわち、原判決は、上告理由第一点で指摘したとおり民法第一条第三項の解釈を誤った結果、権利濫用を基礎づける事実について、上告人の主張している事実を事実として摘示しない誤りを犯し、理由中にもその判断を脱漏させている。従って、判決に影響を及ぼすべき理由の不備があること明らかである。仮に理由不備と言えないとしても、判決に影響を及ぼすこと明らかな民事訴訟法第一九一条第二項違反とする。

一 上告人の主張した事実

上告人は、権利濫用を基礎づける事実として原判決の抗弁2の権利濫用の欄に事実摘示で挙げられていた事実の他に次の事実を主張している。

① 被上告人の代表取締役と、上告人の夫ビルが同一人であること(平成二年一月二六日付答弁書3頁)、

② 被上告人はビルの個人会社であるということ及びビルが被上告人を実質的に支配していたこと(答弁書5頁、平成二年八月二四日付最終準備書面2頁から5頁、平成二年一〇月一九日最終準備書面補充(一)2頁、平成三年一月二五日付最終準備書面補充の二2頁及び5頁から9頁にかけて)、

③ 本件建物は建築当初より、ビルと上告人の婚姻生活の場として予定し、実際に婚姻生活の場として使用されていたこと及び被上告人の用に供されたことは一度もないこと(最終準備書面補充の二9頁及び12頁から14頁、答弁書5頁)

④ ビルは一方的に本件建物から出て行ったこと(最終準備書面補充の二2頁、最終準備書面補充の二17頁から18頁にかけて)

⑤ 本件合意解約は、ビルの本件建物からの退去後、わずか八日後になされていること(答弁書3頁、最終準備書面11頁)

⑥ 本件建物に居住している者のうち上告人は病気加療中、ミエは学生であること(答弁書4頁、最終準備書面一二頁並びに平成三年一月二五日付準備書面二頁及び一七頁から一八頁にかけて、最終準備書面補充の二2頁、最終準備書面補充の二2頁、最終準備書面補充の二17頁から18頁にかけて)

⑦ ビルが東京家庭裁判所の審判(同庁平成元年家第九五四八号)において婚姻費用の分担を命ぜられたにも関わらず、それ以後も婚姻費用を分担していないこと(最終準備書面12頁)

⑧ 上告人ら母子二人は上告人の長男の援助でなんとか生活しているものであること(答弁書4頁、最終準備書面12頁、最終準備書面補充の二2頁及び17頁から18頁にかけて)

⑨ 被上告人はビルに対し、賃料増額を求めたことはないこと(答弁書7頁)

二 原判決の考慮した事実

原判決は、上告人の前記一記載の主張のうち①、②、③、⑤、⑧については事実摘示あるいは理由中で触れたものの、権利濫用を基礎づける事実として摘示せず、もって、理由中で権利濫用を判断する際の基礎として考慮にいれなかったばかりか、そもそも前掲④、⑥、⑦、⑨については事実として全く摘示せず、理由中でも何ら判断を加えなかった。

三 判断逸脱の判決に対する影響

前述したように権利濫用を基礎づける事実としてはあらゆる具体的事実が含まれるべきであるが、①及び②については、ビルと被上告人との関係をあらわす事実であって、前記上告理由第一点で詳述したとおり、ビルと被上告人が別法人格である本件においては権利濫用を基礎づける事実として特に重要であるし、③についてはこれにより上告人の居住の利益が認められる。④及び⑦はこれが認定されれば婚姻生活・同居の継続を否定しているのは専らビルの意思でありそれにより上告人の婚姻生活が脅かされていること、⑥及び⑧は、権利濫用の要件として客観説をとる立場からは特に重要であり、これらが認定されれば、上告人には本件建物を使用する必要性が高いこと、⑤については、被上告人の合意解約の理由は本件建物を使用する必要性があってのことではなく、ビルが上告人と別居したことのみによること、⑨が認定されれば、被上告人には本件建物の返還を受けて第三者に賃貸しさらなる収益を挙げるべき必要性があるのか疑問であること、が明らかとなるであろう。これらは権利濫用を基礎づける事実であって、これらの主張が認定されれば、まさに被上告人の明渡請求は権利濫用と目されるべきである。

従って、上告人らの右主張は、判決に影響を与えるべきものであること明らかであるのに、原判決は、これを権利濫用を基礎づける事実として摘示せず、また、理由中でも、前掲①、②、③、⑤、⑧の一部について認定はしたものの権利濫用を基礎づける事実としての検討は行わず、前掲④、⑥、⑦、⑨については、全く判断を加えず、理由不備の違法があり、到底破棄を免れない。

第三点 原判決には、賃貸借契約の成立、その合意解除及びこの解除の無効の主張に関して判決に影響を及ぼすことが明らかな理由不備があり、又は訴訟手続きに関する法令の違背が存する。(民事訴訟法第三九五条、三九四条)

すなわち、原判決は、当事者が主張している賃貸借契約の成立及びその合意解除につき事実摘示に記載せず、さらに上告人が書面をもって主張している合意解除の無効を事実として摘示せず、理由中にもその判断を脱漏させている。従って、判決に影響を及ぼすべき理由の不備があること明らかである。仮に理由不備と言えないとしても、判決に影響を及ぼすこと明らかな民事訴訟法第一九一条第二項の違背をおかしているものであって、到底破棄を免れない。

一 原審での当事者の主張

被上告人は上告人に対し所有権に基づき本件建物の明渡しを求め、賃貸借契約について合意解除の主張をなし、その存在を自認していたところ(訴状、平成二年三月二日付準備書面5頁)、平成二年九月二一日付準備書面第二において賃貸借契約が存在する旨の前記主張を撤回したが、上告人の抗弁たる使用貸借契約の積極否認とする趣旨で、平成二年一二月一三日付準備書面第二項及び第三項において賃貸借契約の存在を再び認め、さらに平成三年三月一五日付準備書面第一項において「原告はビルに対し、昭和五九年一二月下旬、本件建物を社宅として、賃料月額一五万円、期間は一応の目安としてビルの子供が高校入学までとし、最長三年の約定で賃貸した。……そして、右賃貸借契約は、昭和六三年一〇月一八日合意解除され、明渡日は同年一一月三〇日とされた。」と主張し、本件賃貸借契約の存在及びその合意解除を再び主張(「再主張」)している。

上告人は、平成二年八月二四日付準備書面を陳述し、その第四項において上告人とビル間の本件建物の賃貸借契約の合意解除の無効を主張した。

二 原判決の判断

原判決は、事実において、上告人の抗弁たるべき賃貸借契約及びそれに対する再抗弁たる合意解除の主張を摘示せず、従って上告人の前記合意解除の無効の主張も適示せず、かつ、理由中でも右賃貸借契約及び合意解除契約の存在を争点として把えず、安易にこの存在を認定し、上告人の合意解除の無効の主張には何ら判断を加えなかった。

三 上告人の主張

1 当事者の主張があったこと

前記再主張は、被上告人から使用貸借契約の積極否認とする趣旨で為されたものであるけれども、弁論主義の下では、自己に不利益な陳述を相手が援用すると否とに関わらず、当事者の主張として採用されるべきであり、しかも当事者がある事実を主張するについての主観的意図に裁判所は拘束されないのであるから、原審はこれを抗弁として斟酌すべきであること当然である。

右の理は最高裁昭四一年九月八日民集二〇巻七号一三一四頁昭和四一・四二年度重要判例解説七八頁でも認められている。同事案は、控訴人から被控訴人に所有権に基づく本件宅地の所有権移転登記手続請求訴訟と、被控訴人から控訴人に対する所有権に基づく本件宅地上の建物収去土地明渡請求訴訟が併合されたものであって、控訴人は取得時効完成の事実を主張したがそれに対する積極否認として被控訴人は控訴人による本件宅地の占有は使用貸借契約に基づくものであり取得時効が完成するいわれはないと主張した。控訴審は、控訴人の占有は使用貸借によるものであることを認定し取得時効の主張を排斥した上で、控訴人の占有権限がないとして控訴人の請求を棄却し、被控訴人の請求を認容したものであるが、最高裁は「被控訴人の本訴請求については、被控訴人が控訴人に対し、本件宅地の使用を許したとの事実は、元来、控訴人の主張立証すべき事項であるが、控訴人においてこれを主張しなかったところ、かえって被控訴人においてこれを主張し、原審が被控訴人のこの主張に基づいて右事実を確定した以上、控訴人において被控訴人の右主張事実を自己の利益に援用しなかったにせよ、原審は右本訴請求の当否を判断するについては、この事実を斟酌すべきであると解するのが相当である。」として被控訴人の請求認容部分を破棄差し戻したものである。このように、一方当事者が自己に不利益な事実を相手方主張の積極否認の根拠として主張した場合も、当事者の主張があったこととなるのである。

2 自白の不成立について

思うに原判決が事実摘示において本件賃貸借契約の存在を摘示しなかった理由は、あるいは原判決は被上告人の平成二年九月二一日付準備書面第二項及び同年一二月一三日付準備書面第一項の主張にあるように、賃貸借契約の不存在について自白が成立していると解したためであろうか。しかし、自白とは相手方の主張と一致する訴訟当事者の自己に不利益な事実を認める陳述を言い、ここに言う「不利益な事実」の意味は相手方が挙証責任を負う事実であるとするのが判例(大判昭八・二・九民集一二・三九七及び大判昭一一・六・九民集一五・一三二八)であるから、上告人が自己に挙証責任が有る事実を否定し、それを被上告人が認めたからといって上告人の陳述に自白が成立するはずはない。仮に自白が成立すると考えたとしても、被上告人の再主張以降は当事者の主張は一致しないのであるから上告人の陳述に自白が成立する余地はない。なお、被上告人の賃貸借契約不存在の陳述は被上告人に不利益ではないので自白ではないのだから、再主張が自白の取消しであるかどうかの問題が生ずることなく(同旨最高裁昭三五・二・一二判例時報二一八・二三)、当然許されるのである。

上告代理人は、原判決が、理由中で賃貸借契約の存在を認定していることから、賃貸借契約の不存在についての自白の成立を認めたものではない旨信じているが、念のため自白が成立する余地がないと反論しておく。

3 合意解除の無効の主張の意味

上告人のする合意解除の無効の主張が再抗弁たりうることについて付言する。

上告人が合意解除が無効であるとするのは、本件合意解除が信義則違反又は権利濫用であるとするものである。

上告人には少なくともビルに対する関係では居住権が認められるものであるが(配偶者の居住権を認めたもの、上告理由第一点、一、1で前掲したものの他、前掲東京地裁昭六二・二・二四判例タイムズ六五〇・一九一)、本件合意解除は上告人を本件建物から退去させる結果をもたらすものであって、上告人の居住権を無視するものである。このような合意解除は少なくとも上告人とビル間では信義誠実の原則違反あるいは権利濫用として無効と解されるべきである。

次に被上告人に対する関係で合意解除の効果を検討するに、本件の場合は被上告人代表取締役がビルと同一人であってその間の事情を知悉していること、被上告人とビルは、表裏一体の関係にあり、経済的利害が共通していること、ビルは、被上告人を自由に支配しコントロールできる立場にあり、現実に支配していること等の特殊の事情が存在し、また被上告人の側で賃貸借契約を解除する積極的理由が何ら存在しないので、単にビルの意向を受けて合意解除することは、著しく不当であり正義に反するものである。従って、このような合意解除は上告人と被上告人との間でも信義則に反し、権利の濫用に該当して無効であるといわざるを得ない。

確立した判例では、賃貸人と賃借人の賃貸借契約の合意解除は、転借人との関係では原則として信義誠実の原則に反し、当該合意解除により転借人の権利は消滅しない(最判昭三七・二・一民集五八・四四一、最判昭六二・三・二四判例時報一二五八・六一等)とされている。転借権は転貸人に対する債権である以上、本来であれば賃貸人の承諾がなければ賃貸人に転借権を主張できないはずであるのに、後者の判例は背信性のない無断譲渡の転貸借の場合にも転借人保護の観点から転借人の居住権(転借権)を合意解除から保護し、賃貸人に対して居住権(転借権)を主張できるということを判例は認めているのである。この場合の転借人の要保護性と本件の場合の上告人の要保護性と実質的に考えていかほどの違いがあろうか。

もちろん本件では上告人はビルの占有補助者として本件建物に居住していたのであって、独立した占有を有する転借人と形式的に全く同一に論じ得ないかもしれない。しかし、いずれの場合も本来であれば賃貸人に対して占有を主張できない場合であることは同一である。さらに、判例によっては、賃借人が家屋から退去した場合に賃借家屋に同居していた者が独立して占有することとなったことを認定して、転貸と解したものもある(大阪地裁昭三九・一一・五判例時報四〇八・四一、東京地裁昭四二・四・二四判例時報四八八・六七。なお、東京地裁昭四〇・七・七ジュリスト三三五・三参照)。上告代理人は上告人が本件建物を転借していると主張するつもりではないが、合意解除はビルが本件建物から退去した後になされたものであり、上告人の占有の独立性を認める余地が高く、独立に保護する必要性があることを指摘したい。

従って、上告人は、本件合意解除の無効を被上告人に対して主張できると解すべきであり、合意解除の無効は再抗弁たり得る。

第四点 〈省略〉

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